2015年6月18日木曜日

神戸連続児童殺傷事件元少年の手記

神戸児童連続殺傷事件の加害者の手記が出版されました。
http://www.ohtabooks.com/press/2015/06/17104800.html

多くの人は、被害者遺族の了承を得ていないこと、印税目当てだなどと批判しています。
多くの人が被害者遺族の心情を盾にして、正義を振りかざしています。犯罪加害者という絶対に反撃されない、反論されない相手に対して、正論を投げつけています。

私は加害者と同じ年で、当時からこの事件についての報道に疑問を持っていました。そして加害者少年の保護を否定し、少年法の厳罰化を行ったことについては、いまでも疑問を持っています。
14歳の少年が犯罪に至るまでには、様々な過程があったと思います。その過程でどれだけの大人が彼にきちんとした対応をしたのでしょうか、多くの大人はややこしい奴として、無視し、蔑ろにしてきたのではないのでしょうか。
いずれにせよ、結果として、誰も彼(と彼の病理)を救えなかったわけです。
彼に重罰を与えることで、満足したり、死刑を求め、安心しようとする社会とは、なんと無責任な社会かと思います。
しかし、彼はいまも社会的に抹殺された存在として生きているのです。

彼は加害者として一生生きていくわけで、自由はありませんし、自分が加害者であることを公言することもできません。社会的に幸せになることも許されません。かといって、彼の更生にあたっては、法務局の多くの方が人格的な接触も含めて尽力されたことを考えると、彼は死ぬこともできません。
まさに生き地獄だと思います。

彼を見て、私は死刑をなくすべきだと確信しました。社会的に抹殺されながら生きることは、死ぬよりももっと辛いでしょう。
そして、私たちは彼を生み出した社会の一員として、責任をずっと意識し続け、子どもたちを救わなければなければならないと思います。

被害者遺族の心情を盾に、正義を振りかざし、加害者を批判する方たちは、自分たちが抹殺したはずの加害者が生きていることを恐ろしく、けしからんことだと思い、必死に攻撃しています。その必死さを表すように、稚拙な言葉で批判を繰り広げています。見るも無惨だと思います。そして、彼らの作り出した被害者像に合わなければ、被害者をも批判しだすでしょう。
自分の生きる社会の責任と子どもへのまなざしの歪さについて自覚できていないのだと思います。

2014年7月29日火曜日

権利とわがまま

教育学者は子どもの権利の代弁者でなければならない、
と、最近よく思う。

「子どもの権利を尊重すれば、子どもを甘やすことに繋がる」
というのは理論的におかしい。実際には、
「権利が尊重されないから、子どもを甘やかさざるをえなくなる」のだ。

例えば、
ご飯(お米)を食べずに、お菓子(ケーキ)ばっかり食べる子どもが居たらどうする?と考えてみてほしい。

ご飯を食べることが「権利」だとしたら、
お菓子のケーキを食べたがるのが「わがまま」にあたるかもしれない。
子どもが「わがまま」にならないように「権利」を制限するという考えは、
「ケーキを食べたがるから、ご飯を食べささない」ということだろう。
こんなことを実際したら、どうなるだろう。
子どもはお腹が空いて、さらにお菓子を食べたがるようになるだろう。
そう考えると、「権利を尊重することはわがままに繋がる」と考えられていることのおかしさが分かると思う。

権利というのは、生きて行くのに必要なものであって、わがままとは本質的に違う。
横暴(わがまま)に振る舞っている人は、権利を守られた人ではなくて、
権利を侵害され続けて、横暴に振る舞わないと、欲求を満たせない人であって、
その欲求が本質的なものではないことに気付けない人なのだ。

質のいいご飯をちゃんと食べさせて、子どもが満足すれば、お菓子も少なくてすむ。
某保育園では、お菓子ではなく、食事を補う「補食」としておにぎりなどを出すという。
足りないのは権利であって、その補い方をきちんと知ることが重要だ。

十分に権利を尊重された状態にある子どもは自立的に欲求を制限することができる。
これは既にジャン・ジャック・ルソーが200年前に言っていることだ。
そんなことも踏まえずに、子どものわがままを制限することが教育だと言っている教育学者は、ご飯が足りない人なんだろう。

2013年11月27日水曜日

知ることの本質


情報を得る、というのは、
何かを「知る」ことだ。

その情報を隠しておくことは、
何かを「知る」ことを阻むことになる。

知は力なり、という言葉は、
かなり使い古された感があるけれども、
人より物を「知っている」ことは、
権力を持つことと同等の意味がある。

こう書くと分かりやすい。
あなたは知らない
しかし、私は知っている
あなたがたは何も知らない、
しかし、私はたいていの事を知っている
あなたはそんなことも知らないのか?
私はあなたよりもとうに多くの物事を知っている。
あなたと私とどちらが正しいですか?
何も知らないあなたより、私のほうが正しいでしょう。

人より物を知っていることは、
たやすく力に繋がる。

国が、国民の得る情報を制限すると
こうなる。
国民は知らない。
しかし、国は知っている。
国民達は何も知らない。
しかし、国は知っている。
国民はそんなことも知らないのか?
国は国民よりもとうに多くの物事を知っている。
国民と国とどちらが正しいですか?
何も知らない国民より、国の方が正しいでしょう。

これで、全ては正当化される。

知ることは権利ではなくて、力。

これが情報の本質。
 



2013年7月30日火曜日

おかしなこと。

たくさんの学生を長時間、じっと見ることがある。
たくさんの色々な背中が、ずずずと並んでいる。
背中が盛り上がっていたり、
肩甲骨がでっぱっていたり、
妙に丸みを帯びていたりする。

毎度繰り返される同じ風景。
何度も何度も繰り返して行われる、この行事。
私はずっと背中を見ている。
ふと、これはとても不思議なことと思った。
どの学校でもこの風景だけは同じ。

定期試験。

はじまりの号令で、書き出し、
ずずずと背中が答案にめり込んでいく。
ときどき伸びたり、倒れたりしながら、
一分一分すぎるのを待つ。

みんな自分の答案にめりこんでいく。

問題用紙と答案と私。
大講義室の閉鎖的な世界。

問題用紙と答案と私の関係は、
誰でも公平だという錯覚。

問題用紙と答案と私。

なんだかおかしいのよね。
教育の洗脳。


2013年1月10日木曜日

呼ばれ方思考

人は一人では生きてはいけないのだけれども、
たくさんの中で生きていくことになると、
それはそれでうまく生きていけないこともある。

今の日本社会で障碍者と呼ばれる人が、
もし、大草原に1人で生活していたら、
その人は、障碍者とは呼ばれない。
健常者も然りだ。

たくさんの人の中で、
そう呼ばれているだけなのだ。

そう考えると、
「そう呼ばれている」だけ、と考えられることは結構ある。

現に私は教育学者だけれども、
大草原に1人で生活していたとしたら、
教育学者とは呼ばれない。

2人で生活していたら、いっぺんに
誰かの友だちと呼ばれたり、
妻と呼ばれたり、親と呼ばれたり、
するのだろう。

3人で生活していたらどうだろう、
4人で生活していたらどうだろう、
と考えると、人というのは、
一体何通りの呼ばれ方をしているのだろうかと思う。

その「呼ばれ方」は人や物との関係性や
役割に応じてついてくる。
健常であることに対して、「障碍」があるだとか、
教えることを仕事にしているから「教師」だとか、
婚姻関係を結んだから「夫婦」だとか、
○○ちゃんを養育している、「母」だとか、「父」だとか

私が感じる違和感は、
呼ばれ方が一人歩きしていることだ。

教師とは何か?障碍とは何か?夫婦とは何か?
母は何をすべきか?父はなにをすべきか?
記号が主語になって、一人歩きするようになっている。
本当は、
教えることを仕事にするとは何か?
健常であることとは何か?
婚姻関係とは何か?
子を養育するとは何か?
を考えることでしか、
社会との関係や社会での役割は見えてこないのに、
呼ばれ方に非常な注意が払われる。

呼ばれ方に過剰に適応する。
社会人


就活生
教師
社会との関係よりも、
より、その呼ばれ方に適応しようとする。
そこにしか注意がないかのように。

社会との断絶はそういうところからも
始まっているのかもしれない。


2012年9月19日水曜日

京都市長からの返答

8月末に、京都会館工事について、
京都市長宛にホームページから質問書を送りました。
同様の質問も多く送られたようで、
テンプレートのような返答ですが、
以下のような内容でした。



拝復
 この度は,京都会館の再整備についてご意見をいただきましてありがとうございます。お寄せいただきましたご意見に,お返事させていただきます。
 京都会館につきましては,昭和35年の開館以来多くの方々に愛されてまいりましたが,施設全体の老朽化やホール機能の前時代化など,施設利用者の皆様の今日的なニーズに応えられない状況が著しくなってまいりました。こうした事態を受け,平成14年度の耐震調査以降,10年間近くにわたり,様々な機会を通じて多くの市民の皆様にご意見をお伺いしながら専門家による検討を重ねてまいりました。
 昨年度には,「京都会館の建物価値継承に係る検討委員会を立ち上げ,京都会館の設計者である前川氏が設立した前川建築事務所や日本建築学会からの推薦を受けた委員等により建物価値を継承しながら使い続ける公共ホールのあり方について議論を行い,本年5月に基本設計を取りまとめました。京都会館を公共ホールとして安全にご利用いただくとともに機能再生を図るためには,本市として現時点で考え得る最適な再整備の計画であると考えております。
 京都会館への見学等の申込に関しましては,これまでから,可能な限り対応してまいりましたが,平成24年9月以降は,第一ホールの解体工事を実施しているため,安全上の問題等から見学をお断りさせていただいております
 イコモス20世紀遺産に関する国際学術委員会(ISC20C)からの意見書につきましては,この意見書を受け,本市から「ISC20C」委員長宛てに,京都会館再整備事業に係る本市の見解を平成24年9月7日に送付いたしました。本市の見解につきましては,京都市ホームページ「京都市情報館」の文化芸術企画課のページに掲載しております。
 京都会館の素晴らしい建物価値を最大限に引き継ぎ,全国からお越しになる方々の期待に応えられるように必要十分な機能充実を行うことにより,今後長期にわたり公共ホールとして使い続ける中で,新たな建物価値として評価されるよう,しっかりと取組を進めてまいります。 
 何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
敬具 
平成24年9月19日
            京都市長 門川 大作


気になった点をいくつか。

①京都市の設置する検討委員会の報告書
これがどれぐらい今回の計画に反映されているか。

②検討委員会はいわば専門家の集まりであって、そこでの議論を市民に十分に報告したのか。
そして、直接の費用負担者である市民の合意を得たのか。
スケジュールを整理すれば、報告書が4月、計画が6月、工事落札が8月という早いペースですすんでいる。
この二ヶ月くらいのペースで、設計や工事の計画が十分できるものなのか?

③検討に関わったという日本建築学会や前川事務所のスタンス
モダニズム建築の保存は今後建築界の重要なタスクになるはず。
それを専門家としてどうとらえているのか。(イコモスの警告をどう受け取ったのか)

④工事計画が出てからの警告に対して、見直そうとした形跡が全く無い。

細部まで検討できませんが。

以上



2012年7月7日土曜日

倫理と感情

なぜ、こんなことになっているのか、
と、戸惑いを感じることがある。
自分の特性を分かるために、
自分が何について違和感を感じるのか、
明らかにすることは大切である。

考えたことは、
「倫理」と「感情」というもの。

私は常々、死刑制度には反対である。
ひとつは、人は善であると信じているから。
ひとつは、国家に人を殺す権利を与えたくはないから。
ひとつは、死刑では何も解決しないから。
という三つの理由によってである。

私は、教育学者であって、教育者である。
悪い子どもは、生まれてから死ぬまでずっと悪いままだ、
というのであれば、教育が有る意味がない。
人は生まれた時から悪であることはない。
環境と教育によって悪となるのである。

私は、日本国民である。
日本という国家が、人を殺していることは、
私が人殺しをしているのと同義である。
私はそんなことは許していない。
死刑判決を出した裁判官を、信任しない。

私は、研究者である。
社会課題の解決を一義的に考えないといけない。
犯された犯罪が、再発しないように、
より良き社会を作らねばならない。
死刑によって加害者を殺すことで、解決への手がかりを無くすことになる。

この三つの理由の根底には、
私の「倫理」がある。
思えば、私はこの「倫理」によって職業を選んでいる。
「倫理」に違うような仕事はしたくないのである。

この「倫理」を凌駕しているのが「感情」なのではないか。

人として守るべき道(倫理)は、実践されなければならない。
倫理は日々の生活の中で実践される。
今日買うもの、着る服、使う物、食べる物、
全て、人として守るべき道、に沿って行動しないと、
人間たりえないからである。
常に、模索しながら、見失わぬよう、考え続けないとならない。

人の生活が、倫理の体現でないといけない。

しかし、
人として守るべき道、は、自ら実践するものではなく、
感情を主張する手段となっているように思う。
「人道に反する」、「倫理的見地」から、などということは、
自らの行動に向けられるのではなく、
もっぱら他人の過失に向けられるようになっている。
人を批判するとき、その責を追求するときに、
倫理を理由にあげるのである。

そこでは感情が倫理を凌駕していて、
感情的に怒りたいが、まっとうな理由が無い時に、
倫理、人道を出してくるのである。

マスコミによって、
感情があおり立てられることも問題だが、
私は、この倫理を実践していない人が多いことが
そもそもの問題のように思えてならない。

倫理の実践には、人間性の発揮が必要である。
怠惰も含む人間らしさを、
受け止める環境に自らを置くこと。
それを努力として認めること。

今や、必死で甘えや弛みを作らないと、
人の道は歩けないのである。