青年期とは、児童期から成人期の移行期だと言われている。
それは特に、労働市場への参加をもって終了するとされている。
その特性ゆえに、社会的経済的政治的影響を受けやすいのだとされている。
現在の青年は、
労働市場への参加自体も困難であるし、
参加したところで、非正規雇用だったりして、
青年期の終わりは曖昧なものになっている。
自分はなんなのか、形にはまれない状態が長引くのである。
特に、労働社会の構成員として、流動的であることは、
経済的自立の問題とクロスオーバーしている。
収入も不安定だし、就労形態も不安定ということだ。
不安定なまま、不安定な社会を生きる、
そしてその時間が長引くというのが現代の青年期の特徴だ。
さらに気になるのは、
不安定よりは安定しているほうが良い。という感覚。
これは、どこから来ておるのだろうか。
安定した仕事、安定した生活なぞ、歴史の中でそうは無かったはずだ。
せいぜい戦後の急激な経済成長の中で醸成されたものに過ぎない。
不安定な生活を守るために社会保障があるべきなのだが、
社会保障も安定した生活を前提に作られてしまった。おかしい。
安定した生活を保証することによって、企業は労働者の権利を剥奪し、
搾取し、非人間的な労働秩序を労働者に受け入れさせて来た。
教育も、そういった人間を育てるためにシステム化されてきた。
安定した生活は、安定した収入だけを指すかのようだ。
良い教育とは、学校歴だけを指すかのようだ。
おかしい。
おかしいね。
安定を求める価値観こそが、
自分の闘っているものだと、
今、若者を搾取している官僚や大企業に作られてきたものだと、
気づくことが、現代の青年期の終わりになるのではないか。
つまり、不安定さを脱して成人期を迎えるのではなく、
不安定さを受け入れながら成人期を迎える。
青年期の終焉は、「安定を絶対視しない」
新たな労働観の獲得なのではないかと思うのである。
移行期としての青年期はこのように、
変質しているのではないか、
と思うのである。