2012年3月24日土曜日

うつりゆく時間

青年期とは、児童期から成人期の移行期だと言われている。
それは特に、労働市場への参加をもって終了するとされている。
その特性ゆえに、社会的経済的政治的影響を受けやすいのだとされている。

現在の青年は、
労働市場への参加自体も困難であるし、
参加したところで、非正規雇用だったりして、
青年期の終わりは曖昧なものになっている。

自分はなんなのか、形にはまれない状態が長引くのである。

特に、労働社会の構成員として、流動的であることは、
経済的自立の問題とクロスオーバーしている。
収入も不安定だし、就労形態も不安定ということだ。

不安定なまま、不安定な社会を生きる、
そしてその時間が長引くというのが現代の青年期の特徴だ。

さらに気になるのは、
不安定よりは安定しているほうが良い。という感覚。
これは、どこから来ておるのだろうか。

安定した仕事、安定した生活なぞ、歴史の中でそうは無かったはずだ。
せいぜい戦後の急激な経済成長の中で醸成されたものに過ぎない。
不安定な生活を守るために社会保障があるべきなのだが、
社会保障も安定した生活を前提に作られてしまった。おかしい。

安定した生活を保証することによって、企業は労働者の権利を剥奪し、
搾取し、非人間的な労働秩序を労働者に受け入れさせて来た。
教育も、そういった人間を育てるためにシステム化されてきた。
安定した生活は、安定した収入だけを指すかのようだ。
良い教育とは、学校歴だけを指すかのようだ。

おかしい。
おかしいね。

安定を求める価値観こそが、
自分の闘っているものだと、
今、若者を搾取している官僚や大企業に作られてきたものだと、
気づくことが、現代の青年期の終わりになるのではないか。

つまり、不安定さを脱して成人期を迎えるのではなく、
不安定さを受け入れながら成人期を迎える。
青年期の終焉は、「安定を絶対視しない」
新たな労働観の獲得なのではないかと思うのである。

移行期としての青年期はこのように、
変質しているのではないか、
と思うのである。