2012年4月14日土曜日

すぐれた人

優れた人をご存知か?

正確には、優れた人、と言った時に、
あなたは誰を思いうかべたか?

あなたが思い浮かべた人を、ちゃんと覚えておいて欲しい。
それは、あなたの思考全体に重要な役割を果たしているからだ。

私はよく
優れた学者は優れた人格を持っているか?
と、問う。

つまり、いわゆる「学力」と「人格」とは比例するか否かということだ。



大学院で研究指導をする教員の人格、
中卒から働いている左官の親方の人格、
これらには有意な差があるのか??


多分、比例しないと答える人が多いだろう。
優れた業績を残した学者の人柄が優れているとは限らないし、
優れた人格をもった人が、すぐれた学力を持つとは限らない。

「学力」を身につける場である「学校」で勉強することによって
人格は成長しないと答える人が多いという話である。
学校での学習によって人格は成長しないということで。
これは教育制度の根源的な問題に通じる。

そもそも日本の学校は
官僚を輩出するために制度化された旧帝国大学に
アカデミックな性格なぞないのにもかかわらず、
それらの大学がさも最高学府かのように扱われ、ヒエラーキカルな関係を築き、
官僚政治への信頼や人材の集中を効率的に行ってきたという経緯がある。
周知のように、その結果がこの日本の機能不全である。

これら日本的アカデミックなものの信頼は失墜している。

したがって、学力と人格は比例しないと答える人が多いのだろう。
しかし、ここでの学力は、アカデミカルなものではなく、
官僚支配を前提とした統治を成立させるための大学を頂点とした
学力なのである。

そこで、少し、考えた人は

学力とは学歴ではないし、
人格は優れているとかいないとか、評価されるものではないというだろう。

そうそう、

人格という言葉自体が問題なのだ。
人格はドイツ語ではPersonlichkeit これを日本語に訳せば「個性」になる。
人には格があり、それには高低が付けられるという考え方は
明治、日本の近代化に伴って発生してきた。
つまり強国をつくるための、効率的な教育と人材育成のための洗脳だ。

すぐれた「個性」という言葉には違和感があるだろうが、
そういう価値を認めることが大切だろう。
ありもしない、格のようなものを、人につけ、
人間には高低の差があるのだ、と、
それは、崇高なものだと考えさせるその思考こそ、
日本の格差を隠してきたからくりなのである。

れっきとした階級と格差が日本にはある。
それを見えにくくさせるのが、人格と、という概念なのだろう。

では他方の学力は、
というのは、また今度。

さて、あなたのすぐれた人はどんな人だろうか。


2012年4月7日土曜日

じかんどろぼう

ミヒャエルエンデの『モモ』をご存じだろうか。

私はあまり本を読むことを勧めないし、
むしろ読まない方がいい本が多すぎて本を読むなということもある。
本を読んでわかったような気になっている人が多いことが、
若い人たちをだめにしていると思っている。

実体験に基づかない本が多く、
空想の世界で社会をとらえて満足しているような、
そんな錯覚に襲われるような本もあるからだ。
エッセイなんかは自分の体験の解釈をしすぎていて嫌いだ。
対談なんかは手抜きとしか思えないものも多い。
優れた読み物は、実世界と哲学をつなげる強い力を持つものだ。

そういう意味で、エンデの『モモ』は優れている。

灰色の男が現れて、あなたに残された時間、
浪費している時間を告げる。
時間貯蓄銀行に時間をためようという。

人間は、時間をけちるようになる。
時間を節約するためのいろんなデマや闘争が起こる。
時間がないと焦れば焦るほど、自分の生活は崩れていく。
時間がある人、それは乞食のモモだった。
モモだけが自分の生活をしている。

モモを読んで、すべての問題を時間というもので理解することができた。

効率主義や、産業の発達もそう。
根本にあるのは、時間は短く済んだほうがいいでしょうという考え方。
それは結局人間の首もしめることになる。
時間に成果を求めること
時間に意味を求めること

人間は限られた時間しか持たない。
今の瞬間生が終わるかもしれない。
そもそも生に意味はないのだ。
時間に意味をもたせようとすればするほど、
時間を節約することが目的になって、
自分の生の意味がわからなくなる。

人間はもともと矛盾のある生き物だ。


時間を節約することにどれだけの意味を持たせるのか。
それによってその人の生活はガラっと変わる。

わたしは時間を浪費する。
毎日時間を浪費している。
これほどの贅沢はこの産業社会にはないのだ。

周りを見渡してみて、
いいなあとあなたが憧れる人はどういう人だろうか。
たぶん、時間を無意味に浪費しているように見える人ではないだろうか。



2012年4月1日日曜日

メゾメディア

マスメディアの責任だとか、
マスメディアの公害だとかが指摘されて久しい。

NHKは国営放送のように、
現政権の都合の良い情報しか流さないし、
民放は出資者の意向を重視した情報しか流さない。

マスメディアとはそういうもので、
それを鵜呑みにしてはいけないという問題意識から、
メディアリテラシーたる能力を身につけさせる必要があるだとか
学校でもそういう能力を重視しなさいと言われる。
それはごもっともなことである。

しかし、放射能をめぐる一連のやりとりで考えるところがある。

私の母親は、メディアリテラシーたる能力が低い人間だとつくづく思っていた。
なので、マスメディアの言いなりになって、食べて応援!などと
協力するのだろうなと思っていた。
しかし、事故後、初めて私と一緒に買い物に行った時に、
私が「原発を作ってる企業の物は買わない」とか、
「西日本のものの方が安全だから多少高くても買う」とか
いうのを徹底しているのを見て、
「ちかがそういっているから」と前置きながらも、
今では西日本の物を中心に買っているそうだ。

母親の様子を見て思った。
メディアというのはマスだけでは無いはずだ。
情報を入手する手段は、マスがあれば、メゾもミクロもあるだろう。
母親はこのミクロメディアとも思われる、
私からの情報を感情も伴いながら信用しているのだ。

このように、
マスメディアを批判的に見るということは、
それに代わる、メゾメディア、ミクロメディアからの情報が必要だ。
それらにアクセスし、情報収集し、判断することが必要なのではないか。
これが本来必要なメディアリテラシーであろう。

ただ、ミクロメディアは、家族や友人、教師など、
あらかじめ、人間関係ができていて、信用できる人がどうか、
すでに評価されている、という問題がある。
そのために、冷静に判断することができないかもしれない。
これは実名性の高いSNSであるフェイスブックに該当するだろう。

フェイスブックで知り合いがもたらした情報を、
その人との関係や、自分が知っている彼、彼女の
人間性を無視して評価することは難しいことだろう。
彼女の言っていることだから信用しよう、というものだ。

ツイッターの有用性はこういうところにある。
マスでもなく、ミクロでもない、
メゾメディアとしての役割だ。
緩やかに意見が流れるために、マスのように絶対的な力は無い。
ミクロメディアのように、個別の人間関係が成立していないために、
絶対的に信用することは無い。
つまり、小さな違和感から自分の意識が相対化され、自分を振り返ることができる。
かといって、メンションやリツイートによってゆるやかな人間関係もできあがる。
このような中間的(メゾ)メディアの在り方は今までになかっただろう。

そして、今日本において最も弱いのが、このメゾメディアだろう。
ドイツでは、社会教育関係施設の取り組みや、
職能団体などが、このメゾメディアの役割を果たしている。
それらを政治的感覚のよりどころとする市民が多い。

ツイッターがメゾメディアとしての力を発揮させようとする今、
さらに必要なのは、そこで得たものを
実際の政治的活動に移して行く、決め手だろうと思う。

ツイッターで情報飽和になりつつある人が、
実際の社会で何か手がかりを得れば、
爆発的に社会活動は増えると思う。

あとは、「決め手」さえあれば、という状態です。
「決め手」は、みなさんのそれぞれの中にあります。