2012年4月1日日曜日

メゾメディア

マスメディアの責任だとか、
マスメディアの公害だとかが指摘されて久しい。

NHKは国営放送のように、
現政権の都合の良い情報しか流さないし、
民放は出資者の意向を重視した情報しか流さない。

マスメディアとはそういうもので、
それを鵜呑みにしてはいけないという問題意識から、
メディアリテラシーたる能力を身につけさせる必要があるだとか
学校でもそういう能力を重視しなさいと言われる。
それはごもっともなことである。

しかし、放射能をめぐる一連のやりとりで考えるところがある。

私の母親は、メディアリテラシーたる能力が低い人間だとつくづく思っていた。
なので、マスメディアの言いなりになって、食べて応援!などと
協力するのだろうなと思っていた。
しかし、事故後、初めて私と一緒に買い物に行った時に、
私が「原発を作ってる企業の物は買わない」とか、
「西日本のものの方が安全だから多少高くても買う」とか
いうのを徹底しているのを見て、
「ちかがそういっているから」と前置きながらも、
今では西日本の物を中心に買っているそうだ。

母親の様子を見て思った。
メディアというのはマスだけでは無いはずだ。
情報を入手する手段は、マスがあれば、メゾもミクロもあるだろう。
母親はこのミクロメディアとも思われる、
私からの情報を感情も伴いながら信用しているのだ。

このように、
マスメディアを批判的に見るということは、
それに代わる、メゾメディア、ミクロメディアからの情報が必要だ。
それらにアクセスし、情報収集し、判断することが必要なのではないか。
これが本来必要なメディアリテラシーであろう。

ただ、ミクロメディアは、家族や友人、教師など、
あらかじめ、人間関係ができていて、信用できる人がどうか、
すでに評価されている、という問題がある。
そのために、冷静に判断することができないかもしれない。
これは実名性の高いSNSであるフェイスブックに該当するだろう。

フェイスブックで知り合いがもたらした情報を、
その人との関係や、自分が知っている彼、彼女の
人間性を無視して評価することは難しいことだろう。
彼女の言っていることだから信用しよう、というものだ。

ツイッターの有用性はこういうところにある。
マスでもなく、ミクロでもない、
メゾメディアとしての役割だ。
緩やかに意見が流れるために、マスのように絶対的な力は無い。
ミクロメディアのように、個別の人間関係が成立していないために、
絶対的に信用することは無い。
つまり、小さな違和感から自分の意識が相対化され、自分を振り返ることができる。
かといって、メンションやリツイートによってゆるやかな人間関係もできあがる。
このような中間的(メゾ)メディアの在り方は今までになかっただろう。

そして、今日本において最も弱いのが、このメゾメディアだろう。
ドイツでは、社会教育関係施設の取り組みや、
職能団体などが、このメゾメディアの役割を果たしている。
それらを政治的感覚のよりどころとする市民が多い。

ツイッターがメゾメディアとしての力を発揮させようとする今、
さらに必要なのは、そこで得たものを
実際の政治的活動に移して行く、決め手だろうと思う。

ツイッターで情報飽和になりつつある人が、
実際の社会で何か手がかりを得れば、
爆発的に社会活動は増えると思う。

あとは、「決め手」さえあれば、という状態です。
「決め手」は、みなさんのそれぞれの中にあります。