なぜ、こんなことになっているのか、
と、戸惑いを感じることがある。
自分の特性を分かるために、
自分が何について違和感を感じるのか、
明らかにすることは大切である。
考えたことは、
「倫理」と「感情」というもの。
私は常々、死刑制度には反対である。
ひとつは、人は善であると信じているから。
ひとつは、国家に人を殺す権利を与えたくはないから。
ひとつは、死刑では何も解決しないから。
という三つの理由によってである。
私は、教育学者であって、教育者である。
悪い子どもは、生まれてから死ぬまでずっと悪いままだ、
というのであれば、教育が有る意味がない。
人は生まれた時から悪であることはない。
環境と教育によって悪となるのである。
私は、日本国民である。
日本という国家が、人を殺していることは、
私が人殺しをしているのと同義である。
私はそんなことは許していない。
死刑判決を出した裁判官を、信任しない。
私は、研究者である。
社会課題の解決を一義的に考えないといけない。
犯された犯罪が、再発しないように、
より良き社会を作らねばならない。
死刑によって加害者を殺すことで、解決への手がかりを無くすことになる。
この三つの理由の根底には、
私の「倫理」がある。
思えば、私はこの「倫理」によって職業を選んでいる。
「倫理」に違うような仕事はしたくないのである。
この「倫理」を凌駕しているのが「感情」なのではないか。
人として守るべき道(倫理)は、実践されなければならない。
倫理は日々の生活の中で実践される。
今日買うもの、着る服、使う物、食べる物、
全て、人として守るべき道、に沿って行動しないと、
人間たりえないからである。
常に、模索しながら、見失わぬよう、考え続けないとならない。
人の生活が、倫理の体現でないといけない。
しかし、
人として守るべき道、は、自ら実践するものではなく、
感情を主張する手段となっているように思う。
「人道に反する」、「倫理的見地」から、などということは、
自らの行動に向けられるのではなく、
もっぱら他人の過失に向けられるようになっている。
人を批判するとき、その責を追求するときに、
倫理を理由にあげるのである。
そこでは感情が倫理を凌駕していて、
感情的に怒りたいが、まっとうな理由が無い時に、
倫理、人道を出してくるのである。
マスコミによって、
感情があおり立てられることも問題だが、
私は、この倫理を実践していない人が多いことが
そもそもの問題のように思えてならない。
倫理の実践には、人間性の発揮が必要である。
怠惰も含む人間らしさを、
受け止める環境に自らを置くこと。
それを努力として認めること。
今や、必死で甘えや弛みを作らないと、
人の道は歩けないのである。