2012年7月7日土曜日

倫理と感情

なぜ、こんなことになっているのか、
と、戸惑いを感じることがある。
自分の特性を分かるために、
自分が何について違和感を感じるのか、
明らかにすることは大切である。

考えたことは、
「倫理」と「感情」というもの。

私は常々、死刑制度には反対である。
ひとつは、人は善であると信じているから。
ひとつは、国家に人を殺す権利を与えたくはないから。
ひとつは、死刑では何も解決しないから。
という三つの理由によってである。

私は、教育学者であって、教育者である。
悪い子どもは、生まれてから死ぬまでずっと悪いままだ、
というのであれば、教育が有る意味がない。
人は生まれた時から悪であることはない。
環境と教育によって悪となるのである。

私は、日本国民である。
日本という国家が、人を殺していることは、
私が人殺しをしているのと同義である。
私はそんなことは許していない。
死刑判決を出した裁判官を、信任しない。

私は、研究者である。
社会課題の解決を一義的に考えないといけない。
犯された犯罪が、再発しないように、
より良き社会を作らねばならない。
死刑によって加害者を殺すことで、解決への手がかりを無くすことになる。

この三つの理由の根底には、
私の「倫理」がある。
思えば、私はこの「倫理」によって職業を選んでいる。
「倫理」に違うような仕事はしたくないのである。

この「倫理」を凌駕しているのが「感情」なのではないか。

人として守るべき道(倫理)は、実践されなければならない。
倫理は日々の生活の中で実践される。
今日買うもの、着る服、使う物、食べる物、
全て、人として守るべき道、に沿って行動しないと、
人間たりえないからである。
常に、模索しながら、見失わぬよう、考え続けないとならない。

人の生活が、倫理の体現でないといけない。

しかし、
人として守るべき道、は、自ら実践するものではなく、
感情を主張する手段となっているように思う。
「人道に反する」、「倫理的見地」から、などということは、
自らの行動に向けられるのではなく、
もっぱら他人の過失に向けられるようになっている。
人を批判するとき、その責を追求するときに、
倫理を理由にあげるのである。

そこでは感情が倫理を凌駕していて、
感情的に怒りたいが、まっとうな理由が無い時に、
倫理、人道を出してくるのである。

マスコミによって、
感情があおり立てられることも問題だが、
私は、この倫理を実践していない人が多いことが
そもそもの問題のように思えてならない。

倫理の実践には、人間性の発揮が必要である。
怠惰も含む人間らしさを、
受け止める環境に自らを置くこと。
それを努力として認めること。

今や、必死で甘えや弛みを作らないと、
人の道は歩けないのである。