2012年3月29日木曜日

死刑制度の何が問題か

相対的な議論はこの問題には適しませんので、
原理的な話しをしたい。

死刑制度は、法治国家として、
国家が人を殺す、というのを容認するものである。

国家に対して「死」をもって償うほど有害なこと、というのは、
国家の存続、平和、命を脅かすものだろう。
何をすれば死刑になるかというのは刑法に定めてある。

刑法の中には、人の命を奪う以外にも死刑が適用できる規定があるが、
実際は、人の命が奪われた場合にのみ死刑が適応されているそうだ。

なぜ「人の命が奪われた場合にのみ」死刑が適用されてきたのか。

これは、応報としての機能を死刑が担わされているからだろう。
応報とは、行いに応じてということ。
命を奪ったのだから命をもって償えと。
目には目を、歯には歯を、ということだろう。

目には目を、歯には歯を、という考え方は、
成熟した近代国家、福祉国家でどこまで通用するのだろうか。
つまり、その人の犯した罪に対して、
どこまでその人の責任を追及できるのだろうか?という疑問だ。
これは罪人だけではなく、
「人の行いはどこまでその人の責任にできるのか」という、
福祉国家における社会保障の考え方にも通底してくる。

入った企業がブラック企業だった。
過酷な労働を強いられてうつ病になった。
父親からDVを受け、トラウマで売春を繰り返す。
それは彼ら、彼女らの責任だろうか。

どこまでがその人の責任なのだろう。
私は、自分の人生の行い全てに、責任を終えるのだろうか。
何をもって責任をとるのだろうか、社会的地位、命、金、だろうか。
責任とは何だろうか。

他方で、多くの人の命を奪っていても、
大きな企業であったりすると、
誰も死刑にならず、賠償金ですませる場合もある。
経営者のとる責任は彼らの命でもって償われるものではない。

人間は社会的な存在である。
おぎゃーと生まれたその日から、誰かに面倒を見てもらい、社会で生きる。
おぎゃーと生まれたその日から、人を殺す人はいるだろうか。
人間は、社会との関係の中で「人を殺す人間」になってしまうのだ。
精神的な障害による殺人事件なども、障害が可視化できず
適切な処置が受けられないために「人を殺す人間」になってしまう。
そういう人間を作り出すのは、我々社会ではないのだろうか。

永山則夫から何を学んだのだろうか。

もう1つ恐ろしいことには
死刑を容認する社会は
死ぬに値する人間を作るということ。
命に値をつけるのだ。

では、あなたの命はおいくらほどだろう。
生きる価値のある人間なのか
社会は、生きる価値の高い人間によってのみ構成されうるのだろうか。

死刑を容認する人は、
無意識にも、命に価値付けをしている。
そういう意味で、そういう人こそ、社会に有害で、
死刑に値する人間なのではないだろうか。



2012年3月28日水曜日

りずむ。

わたくしは、職人の父と音楽教師の母を持っている。
小さなころから、本を読むよりも早く、
楽譜を読むことを教えられた。
家の本棚には楽譜が入っていた。

幼稚園はリズム教育に重点を置いている所に入り、
裸足に半そでに短パンで駆けずり回るような
五感を大切にする教育をうけていた。

それから、すっとピアノを弾いていたり、
中学校からギターを弾いてバンドをやっていたり、
今では、ブルースギターを弾いて歌ったりしている。

多くの人間関係を音楽で得ている。

それと関係あるのか知らないけれど、
私は、音楽との関わり方で、一定程度その人が理解できると思っている。

人間は、社会的な存在なので
置かれている環境に合わせて変化しないといけない。
変化する時の精神というのは、風にふかれるようにゆらっと揺れるもので、
ゆれながら、定位置を探す。
だから、心の不安定なとき、それは心が成長する一歩手前。
そして、
心の変化は一瞬にしてなされるのではなくて、
一定のグレーの時間を含むのだと思う。

心が変わる時の感覚は、音楽に身をまかすような感覚に似ている。
聞こえてくるものに対して、注意をむけると
自然と体がゆれる、ゆれている間にリズムに合わさってくる。

「音を聞いて、それに合わせないといけない」
というように、リズムをとる人がいるけれど、
意識的に情報を処理して、身体を動かしているのであって、
これはとてもストレスのかかること。
こういう人は心の成長に鈍感で、他者の心を感じるのも苦手になってくる。

音と身体をリンクさせるのが重要であって、
それが手であれ腰であれ、表打ちであれ裏打ちであれ、
なんであれリンクしていればいいのである。頭で考えてはいけない。
最近4つ打ちの音楽が流行るけれど、あれらのように
揺れることを許さない音楽が増えていることは、
心の揺れとその動きまでも自由にならないようになっているようで、
私としてはさみしいのである。

黒人音楽が好きという人は、
この揺れが好きなのだと思う。
黒人が歩くときのリズムは常に揺れている。
不条理な奴隷としての待遇をしなやかに受け流してきた、歩き方。
地面にかかとをつける。
アタックのあとに、振り子がふれるように、
バウンドしてけり出す。
振り子のように揺れながら、やりにくい状況の中でも
心のおさまる所をさがして
揺れながら進んでいく。

リズムと自分をリンクできる人は、しなやかに環境を受け入れながら
心も変化させることができる。
こういう人はどんどん強くなれるし人間的に魅力を増していく。
他方で、それを意識的にしかできない人もいる。
これは今の社会の根源的な問題にもつながっている。
詳しくはまた。

各人がどちらの人間なのか、
というのを、見極めることができる。
方法は秘密。

あなたはどちらでしょうか。

2012年3月25日日曜日

セレモニー

先週は修了式であった。
博士号もとらずに退学するので、なんとなく疎ましかったりする。

式というのは、なんとなく荘厳で改まった態度で挑まなければいけない、
ハレの日であるというのが習慣的に身についている。

たくさん袴を着た女性が歩いていたりする。
私は私服でも使うウールの着物に名古屋帯を締めた。
これはすごくカジュアルな着物。
しかし、卒業式に着物、いいじゃない、となる。
着物を着ているというのが重要なのである。

袴を着ている、
スーツを着ている、
花束をもらう、
偉い人が挨拶する、
それが重要なのである。

おめでとう、何が?
ありがとう、何が?
と考えてしまう。

もともと、セレモニーというのは、
何かに入信するだとか、
限られたコミュニティーに入るとか、
そういう時にひらかれるもの。

これからはみなさん大学の学生ですみたいなことかしら。
そもそも儀式であったもので、宗教的ではないけれど、
なんとなく形式的であったりするわけだ。

しかしまあ。この式典みたいなもの、
例えば成人式は、選挙管理委員会が「集い」たるものとして、
議員や市長選挙の宣伝に活用したり、
某自治体市長が、教育公務員に君が代を歌わせるなど
職務命令を守らせるために活用したりするわけだ。
「当人」を無視して。

主権者としての国民、
教育公務員としての教員、
学士としての学生。

こういったことを前提にお話をしているのか、
というと、そうではない場合が多い。
何も分かっていない「当人」を対象として、誰かの利害関係で、
おとしめたり、叱責したり、「激励」したりする。

そういったものに、式典はなっていて、小さなころから、私はこの種のものが苦手だった。

ただし、中には、感銘に富んだ挨拶をされる方もいる。
だから式も捨てたもんじゃない。
ただし、聞くべき内容のある話か無い話か、
その違いが分かる「当人」がいくらいるのかは別の話。

2012年3月24日土曜日

うつりゆく時間

青年期とは、児童期から成人期の移行期だと言われている。
それは特に、労働市場への参加をもって終了するとされている。
その特性ゆえに、社会的経済的政治的影響を受けやすいのだとされている。

現在の青年は、
労働市場への参加自体も困難であるし、
参加したところで、非正規雇用だったりして、
青年期の終わりは曖昧なものになっている。

自分はなんなのか、形にはまれない状態が長引くのである。

特に、労働社会の構成員として、流動的であることは、
経済的自立の問題とクロスオーバーしている。
収入も不安定だし、就労形態も不安定ということだ。

不安定なまま、不安定な社会を生きる、
そしてその時間が長引くというのが現代の青年期の特徴だ。

さらに気になるのは、
不安定よりは安定しているほうが良い。という感覚。
これは、どこから来ておるのだろうか。

安定した仕事、安定した生活なぞ、歴史の中でそうは無かったはずだ。
せいぜい戦後の急激な経済成長の中で醸成されたものに過ぎない。
不安定な生活を守るために社会保障があるべきなのだが、
社会保障も安定した生活を前提に作られてしまった。おかしい。

安定した生活を保証することによって、企業は労働者の権利を剥奪し、
搾取し、非人間的な労働秩序を労働者に受け入れさせて来た。
教育も、そういった人間を育てるためにシステム化されてきた。
安定した生活は、安定した収入だけを指すかのようだ。
良い教育とは、学校歴だけを指すかのようだ。

おかしい。
おかしいね。

安定を求める価値観こそが、
自分の闘っているものだと、
今、若者を搾取している官僚や大企業に作られてきたものだと、
気づくことが、現代の青年期の終わりになるのではないか。

つまり、不安定さを脱して成人期を迎えるのではなく、
不安定さを受け入れながら成人期を迎える。
青年期の終焉は、「安定を絶対視しない」
新たな労働観の獲得なのではないかと思うのである。

移行期としての青年期はこのように、
変質しているのではないか、
と思うのである。



2012年3月22日木曜日

限界を知る

何事にも限りはある。
あたりまえのことなのだけれど。

例えば、「無限の再生可能エネルギー」をうたって、高速増殖炉など作る。
ナトリウムを使ったもんじゅは、その危険性と我々の持っている技術からして
手におえない。
もしナトリウムが大量に漏れれば人間は生きてはいけない。
例えば、「無限の成長」をうたって、労働秩序を壊し続け、
官吏と癒着し、利益の追求に突き進む企業や経済団体。
就職してお金を稼ぐことに心まで支配されていく。
就活に失敗して自ら死んでしまう人もいる。

「無限」の概念と「生きること」の関係がとても気になる。

「無限」は、誰も経験したことがない。
なのに、なんで「無限」というのか。
「無限」は理論上でしか成り立たない。
なのに、なんで、実態社会に「無限」の概念を持ち込むのか。

自然科学が発達して、理屈上の「無限」が発見される。
社会生活の中では「無限」なぞ無いのに、そこに「無限」が持ち込まれる。
「無限」は社会認識を越えたものなので、特別な意味を持ったものに見られる。
「有限の可能性」よりも「無限の可能性」の方が、聞こえがいい、
社会科学での無限はそのレベルのものである。

教育にこれを持ちこんでみる。
「君には無限の可能性がある。」
「夢は無限大。」
「飛び立て無限の空に。」
こういったスローガンを、教室に飾ってみたりする。
とっても聞こえがいい。

聞こえがいい。それだけである。

無限なのは精神であって、資源は限られている。
限られている資源をいかに使うか、ということは議論されない。

原発にしてもそうだ。
資源は限られているのに、それをいかに使うか、ということよりも
「無限」という言葉が歩きだしたときの恍惚感。
それは素晴らしいことであって、それにかなうものは無いかのようだった。

仕事にしてもそうだ。
資源は限られている。
時間も限られている、お金も限られている、能力も限られている中で、
夢を考える。
夢は見るものではない。考えるきっかけになるもんだ。
「無限」とつけた時点で思考停止にいきつく。

命に限りがある我々は無限を求めてはいない。
可能性は限られたものである。
だからこそ精神世界で「無限」にあこがれる。
それと限られた現実とを混同してはいけない。

無限の能力なぞない。
それを直視させないために使う。「無限」ということば。
いかがお使いかしら。