2013年11月27日水曜日

知ることの本質


情報を得る、というのは、
何かを「知る」ことだ。

その情報を隠しておくことは、
何かを「知る」ことを阻むことになる。

知は力なり、という言葉は、
かなり使い古された感があるけれども、
人より物を「知っている」ことは、
権力を持つことと同等の意味がある。

こう書くと分かりやすい。
あなたは知らない
しかし、私は知っている
あなたがたは何も知らない、
しかし、私はたいていの事を知っている
あなたはそんなことも知らないのか?
私はあなたよりもとうに多くの物事を知っている。
あなたと私とどちらが正しいですか?
何も知らないあなたより、私のほうが正しいでしょう。

人より物を知っていることは、
たやすく力に繋がる。

国が、国民の得る情報を制限すると
こうなる。
国民は知らない。
しかし、国は知っている。
国民達は何も知らない。
しかし、国は知っている。
国民はそんなことも知らないのか?
国は国民よりもとうに多くの物事を知っている。
国民と国とどちらが正しいですか?
何も知らない国民より、国の方が正しいでしょう。

これで、全ては正当化される。

知ることは権利ではなくて、力。

これが情報の本質。
 



2013年7月30日火曜日

おかしなこと。

たくさんの学生を長時間、じっと見ることがある。
たくさんの色々な背中が、ずずずと並んでいる。
背中が盛り上がっていたり、
肩甲骨がでっぱっていたり、
妙に丸みを帯びていたりする。

毎度繰り返される同じ風景。
何度も何度も繰り返して行われる、この行事。
私はずっと背中を見ている。
ふと、これはとても不思議なことと思った。
どの学校でもこの風景だけは同じ。

定期試験。

はじまりの号令で、書き出し、
ずずずと背中が答案にめり込んでいく。
ときどき伸びたり、倒れたりしながら、
一分一分すぎるのを待つ。

みんな自分の答案にめりこんでいく。

問題用紙と答案と私。
大講義室の閉鎖的な世界。

問題用紙と答案と私の関係は、
誰でも公平だという錯覚。

問題用紙と答案と私。

なんだかおかしいのよね。
教育の洗脳。


2013年1月10日木曜日

呼ばれ方思考

人は一人では生きてはいけないのだけれども、
たくさんの中で生きていくことになると、
それはそれでうまく生きていけないこともある。

今の日本社会で障碍者と呼ばれる人が、
もし、大草原に1人で生活していたら、
その人は、障碍者とは呼ばれない。
健常者も然りだ。

たくさんの人の中で、
そう呼ばれているだけなのだ。

そう考えると、
「そう呼ばれている」だけ、と考えられることは結構ある。

現に私は教育学者だけれども、
大草原に1人で生活していたとしたら、
教育学者とは呼ばれない。

2人で生活していたら、いっぺんに
誰かの友だちと呼ばれたり、
妻と呼ばれたり、親と呼ばれたり、
するのだろう。

3人で生活していたらどうだろう、
4人で生活していたらどうだろう、
と考えると、人というのは、
一体何通りの呼ばれ方をしているのだろうかと思う。

その「呼ばれ方」は人や物との関係性や
役割に応じてついてくる。
健常であることに対して、「障碍」があるだとか、
教えることを仕事にしているから「教師」だとか、
婚姻関係を結んだから「夫婦」だとか、
○○ちゃんを養育している、「母」だとか、「父」だとか

私が感じる違和感は、
呼ばれ方が一人歩きしていることだ。

教師とは何か?障碍とは何か?夫婦とは何か?
母は何をすべきか?父はなにをすべきか?
記号が主語になって、一人歩きするようになっている。
本当は、
教えることを仕事にするとは何か?
健常であることとは何か?
婚姻関係とは何か?
子を養育するとは何か?
を考えることでしか、
社会との関係や社会での役割は見えてこないのに、
呼ばれ方に非常な注意が払われる。

呼ばれ方に過剰に適応する。
社会人


就活生
教師
社会との関係よりも、
より、その呼ばれ方に適応しようとする。
そこにしか注意がないかのように。

社会との断絶はそういうところからも
始まっているのかもしれない。