人は一人では生きてはいけないのだけれども、
たくさんの中で生きていくことになると、
それはそれでうまく生きていけないこともある。
今の日本社会で障碍者と呼ばれる人が、
もし、大草原に1人で生活していたら、
その人は、障碍者とは呼ばれない。
健常者も然りだ。
たくさんの人の中で、
そう呼ばれているだけなのだ。
そう考えると、
「そう呼ばれている」だけ、と考えられることは結構ある。
現に私は教育学者だけれども、
大草原に1人で生活していたとしたら、
教育学者とは呼ばれない。
2人で生活していたら、いっぺんに
誰かの友だちと呼ばれたり、
妻と呼ばれたり、親と呼ばれたり、
するのだろう。
3人で生活していたらどうだろう、
4人で生活していたらどうだろう、
と考えると、人というのは、
一体何通りの呼ばれ方をしているのだろうかと思う。
その「呼ばれ方」は人や物との関係性や
役割に応じてついてくる。
健常であることに対して、「障碍」があるだとか、
教えることを仕事にしているから「教師」だとか、
婚姻関係を結んだから「夫婦」だとか、
○○ちゃんを養育している、「母」だとか、「父」だとか
私が感じる違和感は、
呼ばれ方が一人歩きしていることだ。
教師とは何か?障碍とは何か?夫婦とは何か?
母は何をすべきか?父はなにをすべきか?
記号が主語になって、一人歩きするようになっている。
本当は、
教えることを仕事にするとは何か?
健常であることとは何か?
婚姻関係とは何か?
子を養育するとは何か?
を考えることでしか、
社会との関係や社会での役割は見えてこないのに、
呼ばれ方に非常な注意が払われる。
呼ばれ方に過剰に適応する。
社会人
親
子
就活生
教師
社会との関係よりも、
より、その呼ばれ方に適応しようとする。
そこにしか注意がないかのように。
社会との断絶はそういうところからも
始まっているのかもしれない。