2014年7月29日火曜日

権利とわがまま

教育学者は子どもの権利の代弁者でなければならない、
と、最近よく思う。

「子どもの権利を尊重すれば、子どもを甘やすことに繋がる」
というのは理論的におかしい。実際には、
「権利が尊重されないから、子どもを甘やかさざるをえなくなる」のだ。

例えば、
ご飯(お米)を食べずに、お菓子(ケーキ)ばっかり食べる子どもが居たらどうする?と考えてみてほしい。

ご飯を食べることが「権利」だとしたら、
お菓子のケーキを食べたがるのが「わがまま」にあたるかもしれない。
子どもが「わがまま」にならないように「権利」を制限するという考えは、
「ケーキを食べたがるから、ご飯を食べささない」ということだろう。
こんなことを実際したら、どうなるだろう。
子どもはお腹が空いて、さらにお菓子を食べたがるようになるだろう。
そう考えると、「権利を尊重することはわがままに繋がる」と考えられていることのおかしさが分かると思う。

権利というのは、生きて行くのに必要なものであって、わがままとは本質的に違う。
横暴(わがまま)に振る舞っている人は、権利を守られた人ではなくて、
権利を侵害され続けて、横暴に振る舞わないと、欲求を満たせない人であって、
その欲求が本質的なものではないことに気付けない人なのだ。

質のいいご飯をちゃんと食べさせて、子どもが満足すれば、お菓子も少なくてすむ。
某保育園では、お菓子ではなく、食事を補う「補食」としておにぎりなどを出すという。
足りないのは権利であって、その補い方をきちんと知ることが重要だ。

十分に権利を尊重された状態にある子どもは自立的に欲求を制限することができる。
これは既にジャン・ジャック・ルソーが200年前に言っていることだ。
そんなことも踏まえずに、子どものわがままを制限することが教育だと言っている教育学者は、ご飯が足りない人なんだろう。